デザイナー小太刀御禄の頭の中

祖母と私の第二次世界大戦

第二次世界大戦2
—————–Goodbye、祖母。鹿児島の祖母がこの夏に亡くなった。

母方の祖母は1920年代、鹿児島の曽於郡で生まれた。
祖母の父、私の曾祖父にあたる人は役所勤め。
祖母の母、私の曾祖母にあたる人はかなり凄腕の薩摩おごじょで農業をしていたようだ(と聞いているが詳しい事は分からない。)
祖母は12人兄弟の上から5番目。孫の私には想像がつかないくらいの大家族の中で育っていた。

祖母は幼い時に鹿児島で戦争を経験する事となる。
鹿児島といえば、あまり知られていないが本土決戦の要として戦争後半ではかなり辛い役回りとなった。

『沖縄まで亜米利加がきてる。鹿児島で押さえないと日本がなくなってしまうという事。』

祖母はそんな事を言っていた。
そんな厳しい経験をした祖母は戦争の話をしたがらなかった。
祖母の兄弟と思われる写真で軍服を着た青年がいたが、その話も教えてくれなかった。
思い出す事を避けていたのだと思う。
戦争の番組は一切見ないし、特にドラマは感情移入をするからか頑に見なかった。
唯一見ていたのは終戦記念日の靖国神社の映像。

『あれはね、神社だけど神社やないの。あの時亡くなったよく知る兄さん、名も知らない兄さんたちが眠るお墓やっど。』

そう言って黙祷をしていた。

この言葉に出てくる兄さんというのが、かの有名な知覧特攻隊だ。
特攻隊とは片道の燃料を詰んだ戦闘機で敵につっこむという前代未聞の作戦である。

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祖母は幼少期に知覧特攻隊を見送ったそうだ。
当時の祖母は10代前半。詳しい年齢は知らない。
詳しい場所、時期は全く分からない。
ただ見送った事だけを教えてくれた。

『お世話になった兄さん、昨日今日会った名前も知らない兄さんに「お国のために」と言って送り出した。』

『本当はそんな事言いたくない。「生きて帰ってきてくいやんせ」何て言えば非国民になる』

『死にに行く人をどんな気持ちで送りだせばいいか分からなかった』

祖母はそう言っていた。

孫の私には全く分からなかった。答えも感情も全て分からなかった。
私は『国を恨んでる?当時の政府を恨んでる??』と聞いた。

そうすると祖母はこういった。

『誰も恨んでなか。当時は時代が悪かった。戦争が悪かった。ああいう時代やったら、当時の政府や首相が戦争に突き進むのも仕方がなかったのやろう。』

『恨んでるとすれば、義務教育が終わる年が終戦だった事やが。勉強をしたかった。』

晩年の祖母は本をよく読む、調べものもした。習い事もした。
幼少期を戦争にとられた祖母は、うめるように時間を惜しむように勉強した。

詳しい場所や情報のない祖母の証言は歴史資料としては何の価値もないものだろう。
しかし祖母は確実に戦争を見てるし、体験してる。
唯一私に一度だけ話してくれたこの話は今でも私の心をうっている。

そんな祖母が2013年に亡くなった。
この経験を語れる人がこの世からいなくなったのである。

もう一人、当時の戦争体験を話したがらなかった祖母がいた。
父方、栃木の祖母である。
一度だけ戦争体験を聞いた事があったのだが、返ってきた言葉に度肝をぬかれた。

『広島がやられた、長崎もやられた、東京は燃えた、沖縄はとられた、鹿児島から沢山の人が死んだ。悲しんだ人は沢山いた。』

『戦争戦争って悲しんでもしょうがなかった。』

『首都が燃えたなら、復興は誰がやる?燃えなかった関東だ。栃木で必死に頑張った。悲しむ人が沢山いるなら自分は再興のためにやるしかなかった。』

悲しんだ人の裏で、必死に日本を再興しようとした人間がいた。

死にに行く人を見送り、本土決戦の要として悲しい思いをした鹿児島の祖母。
東京が燃え、栃木で生きながらえ首都圏の誇りを持って再興に尽力した栃木の祖母。

ここ数年で二人の祖母が亡くなった。
二人分語り継ごう。
私のできる限りのプロダクトをしよう。平和な時代で美術を学べた私がいつかやりたい事の一つだ。

そういう気持ちから初めてブログに祖母の体験談を書いた。

最後に挿絵として使った桜島の海軍基地の全体図。
今でも鹿児島にはこういうものが残っているのです。
sakurazima02

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