
※ここでいう三国志は三国志演義です。
以前のブログでは三国志の憤死を考察してみました。(https://blog.kodachi369.net/?p=700)
ここで分かったのは憤死はストレスによるメンタル的な病である事、諸葛亮は関わったものを憤死においやる達人である事(憤死誘発職人)、そして司馬懿はストレス回避術に長けているという事。
そこで今回は現代人の課題でもあるストレスの対処法に長けていた司馬懿にスポットを当てたいと思います。
■司馬懿が置かれていた状況
まずは司馬懿がどのようなストレス環境にいたか。
【曹操から】
・曹操から出仕を求められるが、その後曹操から警戒心から差し障りのないポジションへとおしこめられる
分かりやすく言うと、ライバル社からモーレツにヘッドハンティングされながらも実際入社したら「お前の目は鋭いし、狼みたいにめっちゃ警戒してるから信用おけない!」とか言われて差し障りないポジションを与えられるというスーパー飼い殺し状態。
【曹爽から】
・曹叡から次期皇帝の後見人とされながらも、曹爽の手によって実権を持たない名ばかりのポジションを与えられ曹爽に実権を握られる。
曹●さんが多くて混乱しますね。
分かりやすく言うと、先代の社長から若き次期社長の後見人を頼まれる司馬懿と曹爽。
しかし、曹爽は司馬懿に名ばかりの地位を与えると好き放題に権力をふるいはじめる。
その猛威は司馬一族まで手が及びそうになり、司馬懿は一手をこうじなくてはならなくなるのであった。
そしてそれは伝説(のクーデター)へ…
【諸葛亮から】
・五丈原での複数回に渡る挑発
・女性服と女性ものの髪飾りの送付
・女性服と一緒に嫌味を綴った手紙の送付
司馬懿の活躍が三国志の後半というのもあってか、基本的に諸葛亮からの嫌がらせは北伐に集中しているようです。
女性服の送付も北伐の次期。
ちなみに女性服と一緒に入っていた手紙には「戦わないなら女ものの洋服でも着ていなさいよ!(この戦に出てこないなんて男じゃないわこのいくじなし!!)(※現代語訳&いろんな解釈があるようです)」と書いてあったとか。
これは逸話と言われてはいるものの、男性ならムカっとくる手紙ですね。
私はそんな事より洋服選びをしていた諸葛亮が気になります。
■司馬懿のスタンス
司馬懿の戦スタンスは守りの戦。
守りは最大の攻めとどこかの誰かが言っていたけれど、司馬懿のスタンスはまさに守りは最大の攻め。
街亭の戦いでは馬謖の布陣のミスを的確につき、食料と水分の補給路をたつことで持久戦に持ち込みました。
諸葛亮の挑発でもおなじみの北伐でも挑発に乗らない事で諸葛亮のペースに持ち込まないようにしています。
曹爽に実権を握られ、司馬懿の身も危ぶまれたときは老いぼれのふりをする事で曹爽を油断させクーデターを成功させています。
まさに守りの戦、忍耐の戦。
どんなにいらっときてもぐっと耐えて勝機を待ったのでしょう。
■守りの戦を徹底できた司馬懿の性格
売られた喧嘩は受け流し!そんな司馬懿の性格はどんな性格だったのでしょうか。
「晋書」の「宣帝紀」には司馬懿は非常に厳しく激しい性格で、と書かれています。
しかし、内心は怒りの炎を燃やしていても穏やかなに振る舞っていたという。
司馬懿の守りの戦の神髄はこの感情のコントロールにあったのではないかと考えます。
(晋書の真偽のほどは置いておきます)
■司馬懿はストレスを回避していたわけではない?
司馬懿は女性服を送りつけられたときも、少々むかっ腹をたてたと言われています(※逸話)
司馬懿はストレスを回避するわけではなくある程度ストレスを感じながらも、そのストレスをバネにして戦っていたのではないでしょうか?
さらに諸葛亮が亡くなったときには尊敬の言葉すら発しています。
挑発は受け流し、時には軽やかな言葉も返し、そして相手には尊敬の念は忘れない。
そんな司馬懿のスタンスはストレスと向き合い、勝利をマスト項目と考えた生き方だったのだと思います。
結論「最終結果をマストとし、遂行のためにストレスをバネにしたのが司馬懿の生き方」
(あくまでブログ筆者の考えです)
それでは、よいお年を。